| 世界遺産 石見銀山と温泉津 | ||||||||||
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| 世界遺産 石見銀山の歴史 |
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| 世界遺産 石見銀山は、古くは、銀の産地として知られていました。 室町、戦国時代にかけて、日本で初めて「灰吹方」という、銀の精錬技術を取り入れた場所で、ここから、日本全国に広まったといわれています。 世界経済が銀本位制の時代、日本の銀産出量は世界中の1/3から2/3を占めていたといわれ、その影響は、中国経済を動かし、西欧経済をも動かしていたとされます。その、良質の銀を精錬できたのは、この石見銀山あっての話、いわば日本の銀のルーツとも言える場所なのです。 もちろん、この、銀を求めて世界中から貿易船が訪れ、様々な文化が渡ってまいりました。日本の文化にも大変大きな影響を及ぼしたことは、言うまでもございません。 (その、中世経済のルーツ、中世日本文化のルーツとも言える場所が、ほぼ手付かずのまま残っています。小さな日本の町に住んで、微力ながらも、この遺跡を、日本、世界の人々のために保護し、伝えることができれば、なんだか、田舎に帰ってきて良かったなと思います。) 大雑把で、年代、人物名等省略してありますが、詳しくはこちらをご覧下さい。 |
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| 温泉津と石見銀山 | ||||||||||
| 温泉津町は、世界遺産 石見銀山の遺産区域、「沖泊り港」が残る町です。 沖泊り港の歴史は古く、石見銀が見つかる以前、室町から、風待ち港として、栄えておりました。船をつなぐのに使っていた鼻ぐり岩や、海の神様を祭った恵比寿神社などは室町の作とされており、今でも沖泊りに残っています。石見銀が見つかってからは初期の銀積出港として、この港をつかっておりました。 そのころ、使われていた銀の運搬道が今も「銀山街道」として温泉津町には残っています。 この沖泊港は、石見銀を支配する上で大変重要な拠点になりました、まずは、最初に銀を支配した、大内氏が櫛山城(砦)を造り、その後、銀山を支配した尼子一族が、毛利元就に追われたのが、この温泉津とされています。毛利元就は銀を支配する為温泉津を重要視し、鵜の丸城を築き、新しい軍港を築きました、それが今の温泉津港とされています。(余談ですが、毛利が最後まで信長の天下統一に抗えたのも、石見銀山の資金力があったから、秀吉天下統一後、家康の江戸幕府においても、大急ぎで天領にしたのが石見銀山です、江戸幕府の初期の財政は石見銀山が支えていたとも言われております。)今でも温泉津には、毛利元就が従軍僧(使い僧)の為に築いたお寺、西念寺が残っています。 銀の輸送に陸路が開発されると、今度は、石見銀山の玄関口、貿易港として大変な賑わいを見せました。当時、江戸の人口が100万人、石見天領の周辺には、10万〜15万人もの人が住んでいたとされます。当然その、物資の調達には船が使用され、温泉津港には大きな廻船問屋が軒を連ねていました。当時の文献には、出雲阿国も公演をしたと記録が残っています。当時の繁栄振りを示す通り、現在、人口4000の町にもかかわらず、大きなお寺がいくつも残っています。 しかし、江戸後期、明治、銀の産出量が減るとともに、町も急速に衰退していきました。逆に考えると、あまりにも、急速に衰退しすぎたおかげで、この石見銀山が残っていったともいえます。 (できれば、この、遺産を完全な形に復元し、世界の人々に残していける、恥ずかしくないものにしたいと考えます。) こちらも大雑把で、年代、人物名等省略してありますが、詳しく載っているサイトがないため、リンクできませんでした、すいません。 |
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| 温泉津の町並み | ||||||||||
| 石見銀山の良さは、その歴史的価値もさることながら、現在でも人の住む町並みにあります。 この石見銀山に指定された地区には、「町並み保存」に選定されている町が2つあります、一つは大森町、もう一つは、我が、温泉津町です。 10軒近くの木造旅館が軒を並べる様は特殊で、日本で初めて「町並み保存」に登録された「旅館街」でもあります。 他の古い街と比べると、特殊な建物や、古い建物は少ないですが、実際町に暮らしている人の姿、夕方には、温泉に入りに行く地元の住民など、今の日本では、忘れられた日本がここにはあるとお客様が言っておられました。 (ただの古い日本の建物を再現したテーマパークではなく、町の人とお客様が一体となる、懐かしい雰囲気を残せたらなーと、私個人的には考えてます。) |
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| 石見銀山のご案内 | 温泉津石見銀山パンフレット | |||||||||
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